玄奘三蔵法師・天台宗・聖徳太子は、かなり近い時期に起こった仏教界での出来事でした。この三つは、中国と日本の微妙な関係の中で生じています。
この三点をそれぞれのキーワードから繋がりを捉えて論じていきます。
【①三蔵法師・日本との接点】
西遊記で有名な三蔵法師。その三蔵法師のモデルとなった玄奘は、インドに渡り唯識などの仏典を持ち帰った後、唐において日本からきた僧・道昭を迎え、大切にもてなし同室で暮らしながら指導したといいます。インドに旅したとき、旅先で優しくしてもらった体験を思い出し、同様に日本からきた僧をもてなしたのだといいます。
■➀中臣鎌足■
玄奘に習った日本僧・道昭が唐に来たのは、第二回遣唐使(653)においてでありました。その第二回遣唐使には、同じく唐において出家した「定恵」がいます。
その定恵は、中臣鎌足の長男であり、藤原不比等の兄であります。中臣鎌足と言うと、645年大化の改新の始まりである乙巳の変において、中大兄皇子(後の天智天皇)と、蘇我入鹿を新羅・百済・高句麗の使者による進貢の儀式途中に討ち取った人物です。
蘇我氏が仏教を進めてたこともあり、中臣鎌足は神事を司る家系であったため、中臣鎌足は仏教に反対の立場であると考えられ、長男が仏教へ出家するのは説明が難しい点もあるようです。
しかし、大化の改新の始まりは国王の権威と力だけでは国は保てなくなり、臣下のはからいと仏法の力を合わせていく必要が顕著に表れた道理(『愚管抄』慈円)という見方もあり、さらに中臣鎌足の妻は夫の病気平癒のため釈迦三尊を本尊とした寺(後の興福寺)を作っているため、中臣鎌足はこの辺りから唐の文化と関りながら仏教に寛容になっていたのかもしれません。
因みに中臣鎌足は、蘇我入鹿討ち取りの前は、南淵請安という遣隋使として隋に渡り、隋の滅亡から唐の建国まで(608~640まで大陸にいました)みて帰国してきた人の塾に入っていました。その塾において蘇我入鹿と共に秀才と称され、その塾において中大兄皇子と討ち取りの計画を練ったとされています。またその辺りに長男である定恵を643年に生んでいます。つまり、この時に唐の文化とのあり方を考えたのかもしれません。
■②道昭■
遣唐使の第一回は630年、大化の改新の前に行われています。
第二回目は653年で、大化の改新が始まり即位した孝徳天皇が、皇太子になっていた中大兄皇子が不仲になり、遂に中大兄皇子が難波宮を引き払ってしまった年でした。
蘇我入鹿を討ち取ったものの、それによって中大兄皇子が天皇に即位すると天皇になりたいがためにクーデターを起こしたと思われてしまうため、孝徳天皇を即位させ、中大兄皇子は皇太子になり聖徳太子のように天皇でないが政治を担う立場になっていたのです。
しかし、その孝徳天皇と中大兄皇子は不仲になり、結果的に孝徳天皇は孤立して憤死し、中大兄皇子の母である斉明天皇が再び天皇に即位します。
…まぁ、そんな年に遣唐使の二回目は開始されました。
そして、遣唐使の一員の日本の僧である道昭は、インドにいき唯識の経典などを持ち帰って大化の改新の年(645年)から翻訳作業を進めていた三蔵法師(玄奘)のもとに学びに行きます。
「三蔵法師」とはもともと「経・律・論」の三つ(三蔵)に通暁した僧侶のことで、玄奘は「経・論は微妙で難しいから、禅(おそらく律にあたる)に集中しなさい」というような事を道昭に言ったようです。
また玄奘はインドの旅の経験から、道昭を大切にして教えたと言います。そして玄奘が開いた法相宗の日本での開祖に道昭はなります。
そして660年頃に帰朝し、持ち帰った多くの経論・経典類は、飛鳥寺の禅院を建て住み、保管されたと言われています。
その後、白村江の戦が行われ敗戦し、666年には中臣鎌足の長男・定恵も帰国する者のすぐに亡くなってしまいます。
668年には中大兄皇子は母・斉明天皇がなくなって7年が経ちようやく天智天皇に即位(7年間は天皇が空白)し、669年には中臣鎌足を内大臣に任じ「藤原」の姓を賜るも翌日に中臣鎌足は狩りの途中に落馬し亡くなっています。
因みに同じく669年、おそらく中臣鎌足が亡くなる前に、妻である鏡女王が夫の病気平癒を願って山階寺を建てています。釈迦三尊を本尊にし、次男の藤原家不比等が平城京遷都の折に平城京右京に移動させ「興福寺」となっています。この「興福寺」も玄奘や道昭の法相宗の寺となっていくのです。
※『煩悩の教科書』荒了寛・苫米地英人、『愚管抄』慈円・大隅和雄(訳)、ehimosesu2nd.blogspot.com、ウィキペディアの「遣唐使」「大化の改新」「道昭」「定恵」「中臣鎌足」などを参照。
【②聖徳太子・煬帝と智顗】
607年、第二回遣隋使として小野妹子が差し出した「日出づる国の天子…」の国書で激怒したエピソードで有名な煬帝ですが、小野妹子はこの場で煬帝が仏教保護政策を行っていると伝え聞いていて(聖徳太子・推古天皇の思惑もあり)、自国の僧を留学させてほしいと要請しています。
■①隋の建国■
当時、中国は大まかに北朝と南朝に分かれるグループのなかでさまざまな国が争っている状態でした。
そんな中、581年に北朝の一つの国・北周の皇帝の外戚である文帝が、北周を強引に乗っ取り隋を建国しました。
そして文帝の息子である煬帝は、北朝の晋王になり北方の守りに着いたようです更に、588年には中国を統一するために、南朝で勢力を広げていた陳に討伐に出て、その討伐軍の総帥として活躍したようです。
このとき、討伐軍は過剰すぎるほどの規模であったため陥落できた側面があるようで、煬帝の統率力はどうだったのか何とも分かりません。
■②智顗との出会い■
このとき、南朝の陳において、皇帝自ら教えを受けに来るほど偉大な僧・智顗がいました。彼は後に天台宗の開祖となります。
智顗は、日本に仏教が伝来したと言われている538年に生まれました。
さらに、中国において日本に法華経を広めるために聖徳太子に生まれ変わったという伝説がある慧思のもとで560年から学びを受けています。
568~575年には金陵(南京)の瓦官寺で『法華経』や『大智度論』を講義しました。また建業においても活動していたようです。
そして575年には南朝の陳の王朝から支援や講演のオファーがありながらも、天台山に籠もって修行します。この天台山で悟りから天台宗という名前が付くようです。
585年には金陵に戻り、光宅寺で『法華文句』(法華経の一句一句を注釈したもの、587年)を講義しました。この時期には南北朝動乱の中、さまざまな国で仏教を広め、土地の権力者や主を含め、多数の人を強化していたようです。
そして588年に南朝討伐にきた煬帝が、589年に智顗と会う事になります。
591年には煬帝は智顗に対して「智者」の号を下賜し、菩薩戒を授けました。その際、智顗は条件を提示しました。
もともと中国は一時仏教が盛んになったものの、道教など勢力の反発により弾圧が行われたりしました。隋を建国した文帝がもともといた北周も大規模に弾圧した筆頭の一つでありました。北朝が隋になることで仏教保護政策がすすめられたものの、いつ煬帝の気が変わって弾圧にうつるか警戒もしてたため、智顗が皇帝に仏教の理念を伝えられるルートを常に確保することを条件に挙げたようです。
このルートは結局断絶はするようですが、煬帝はこの辺りに仏教に関する文章も書いていて、かならずしも仏教に敬虔でなかったというわけでもなさそうです。
その後、智顗は故郷に戻り、当陽県に玉泉寺を開きます。
593年には『法華玄義』(法華経の深遠な内容の総論)を書き、さらには594年に後に『摩訶止観』という書になる講義を行いました。
そして597年に寿命を全うしました。
智顗は、南北朝の時代、北方の仏教界では瞑想修行が、南方では仏教界では経典の研究が主流になっていたのを、瞑想と経典の研究両者の大切さを説いたところに特徴があるようです。また当時インドから中国へ伝えられた膨大な経典のすべてをひとつひとつ調べて整理し、法華経を中心とした天台教学を打ち立てたようです。そして『摩訶止観』においてその両立が体系立てて語られています。
また智顗の『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』は後に鑑真和尚によって日本に伝えられ、奈良で勉強していた最澄が影響を受け、日本の天台宗に繋がります。また法華経を中心としたスタイルは法然や親鸞・日蓮などにも影響を与えるようです。
■③遣隋使■
煬帝は、兄を出し抜いて皇太子となり、文帝の後を継ぎ第二代皇帝に604年になります。そして、文帝が進めていた移転した長安(大興)の整備や統制システムの徹底をすることで中央集権システムを整えていきます。
そんな中、607年小野妹子の第二回遣隋使が来て、冊封体制を抜ける宣言をしたため激怒したようです。但し、高句麗の遠征を考えていたため、日本に使者(裴世清)を送ることにし、さらに僧の留学を受け入れることを決めます。
そしてその後4回も遣隋使は続きます。第三回目の南淵請安の留学は隋が滅び唐が建国するまで続き、日本に帰ると南淵請安の塾に中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我入鹿が通い、大化の改新に繋がります。
またこの第二回遣隋使は、第一回遣隋使の反省を経てのものでもあったようです。第一回遣隋使は600年第一代皇帝・文帝のもとでしたが、その際日本の政治体制は遅れているとダメだしのようなものをしたようです。
そこで603年に即位した推古天皇は小墾田宮という新宮を造営し、隋を参考に冠位十二階(603年)、十七条憲法(603年)の制定など政治改革を進め、さらに外交使節の歓待も意識した仕様にして、ようやく実現したのがこの第二回遣隋使でした。
■④大運河と高句麗遠征■
中国の二大土木事業として世界的に知られているものとして、「万里の長城」と、煬帝が本格的に始めた「大運河」の建設です。
中国の主要水系は黄河、准水、長江(揚子江)、珠江の四系に分かれ、ほぼ並行して西から東へ流れているが、河川にたよる東西の交通路を、人工的に南北につないだ大運河を、605年から始め610年に完成させたようです。これにより中国全体の流通が活性化します。
他にも605年から皇居など大興(遷都した長安)を中心としたインフラを整えたのですが、必要以上に豪華であったり、大規模すぎたため大人数を疲弊させた側面があったようです。
また対外政策として、トルコ族の突厥と高句麗への遠征を行いました。「突厥」の方は間もなく東西で分裂したため解決したのですが、高句麗遠征はかなり難航しています。
第二回遣隋使で激怒しつつも日本との国交を続けたのは、高句麗の背後にある国であっため、高句麗遠征を意識しての事です。この高句麗遠征は文帝の時代から行われていますが失敗し、煬帝のときには612~614年に行われ、第三次まで続き、互いに消耗して614年にようやく和議を結んでいます。
煬帝は607年に皇帝軍を16グループに分けるなど整備はしましたが、この遠征中に軍隊の疲弊が激しく反乱が起きるもそれを退けて遠征を続けたため、インフラ整備と併せて隋王朝の崩壊の原因を作ってしまったといいます。
618年には、この反乱などによって各地に英雄が割拠して江都に身を潜めていましたが、家臣によって絞首され生涯を閉じました。
※『物語 中国の歴史』寺田隆信、『悟りの教科書』荒了寛・苫米地英人、『ブリタニカ国際大百科事典』、『智顗と王朝の交接』坂本道生、天台主HP tenndai.co.jp 、 rekisiru.co 、日本語版・英語版ウィキペディアの「煬帝」「遣隋使」「智顗」などを参照に執筆
【③聖徳太子・頂法寺】
聖徳太子の実在とは別に、多くの史実とは思えない伝説が仮託され、神話化され、「聖徳太子信仰」ともいえるようなものが至る所に点在しています。六角形の形状の建物に、長方形の建物がくっ付いたような形状の「頂法寺(六角堂)」もその一つです。京都駅から北側へ烏丸の向い、少し越えていくとあります。
■①聖徳太子との関係■
聖徳太子が16歳の時(580年後半)に排仏派の物部守屋討伐にあたって、護持仏に「無事討伐できたならば、仏の功徳に感謝して四天王寺を建立いたします」と戦勝祈願した勝利し、小野妹子とともに建立のためにこの地を訪れた際、ここに如意輪観音像を建てることを決めたというお寺です。
…もっとも現在の調査では10世紀後半と推定されているようですが、古くからこのお寺は聖徳太子信仰の場として存在していました。
■②親鸞との関係■
この聖徳太子信仰から、親鸞が百日間参籠しています。1181年、26歳の青蓮院の門主になったばかりの慈円のもとに、9歳の親鸞が叔父に連れられて訪れて以来、親鸞は比叡山に入りました。
このとき、見事な詩を読み慈円を驚かせたようですが、慈円も天台座主を務めた覚快親王の後を継いだほどこれから勢いづこうとしていた時期でした。
そして、1200年頃、親鸞は比叡山の中の組織同士の争いや僧兵の気質などに疑問を持ち、この六角堂に籠もることを決意します。
この比叡山のいざこざは、1190年の以仁王の挙兵のときに比叡山もどちら側に就こうか考えたり、法然も1175年にこのいざこざに疑問を感じ下山しているし、慈円も同じころぐらいからいざこざに悩むものの兄の政治を支えるためにもこの中を挑戦しようと決断したり、多くの人が悩んだ場所でありました。
親鸞は六角堂に籠もった結果、聖徳太子のお告げをきき、法然の元に向かっています(そう考えると、比叡山や興福寺・円成寺などの大勢力に依存しない、また新しい層(女性など)をターゲットとした仏教を起こそうとした流れなのかもしれません)。
■③足利義政、生け花発祥との関係■
また室町時代においては、後に応仁の乱に携わり、晩期に銀閣寺を作ることになる「足利義政」が1461年に山城の大飢饉のとき、この堂の前に救済小屋を建てたりもしました(おそらく下京の中心に位置していたからではないだろうか)。
さらにほぼ同じ年位の1462年に、この寺の住職は仏前に供える花にさまざまな工夫を加え池坊12世専慶が建てばなの名手として有名になり1469~1486年に活躍しています。そのため、生け花の発祥の地としてられていますが、この生け花の発祥と聖徳太子信仰がまざってか、小野妹子が仏前に花を供えたことが華道の由来とされることもあります。
※因みに全然関係ありませんが、1462年はイタリアにおいてはルネサンス・フィレンツェの基盤を作ったコジモ・メディチが別荘にフィチーノなどを招き「プラトン・アカデミー」を設立した年でもあります。
※六角堂にHP ikenobo.jp 、またウィキペディア「頂法寺」を主に参照